樹と人。絶対的な感覚とは?ー森林浴が生まれた背景ー

*このブログは、小野なぎさ個人の考えを書いております。

日本人と自然、日本人の自然観について書籍や論文を読んでいると、
日本人の信仰心、伝統、文化は深いつながりがあるようだ。

前回のブログ:なぜ日本から森林浴が生まれたのか、信仰から考える。

ここで今、令和の時代に東京で暮らしている
自分はどうなのかを思い返してみる。

大きな樹、榎との出会い

近所の公園に、大きな榎(えのき)の木がある
樹齢100年は経っているであろう大きな木。

わたしはこの木がとても好きで、会いにいきたいと思うことがある。

なぜだろう?

榎は、植物学的には樹木だ。

樹木とは、硬い樹幹を持ち、幾本もの枝があり、地面に根を張り成長する植物の総称。一般には樹幹は木化し、次第に太く成長し、枝には葉と芽を着け、花を咲かせ、主に種子より繁殖。

第三版 森林総合科学用語辞典(一般社団法人 東京農業大学出版会)

樹木の中でも榎は、
 学名 Celtis sinensis
 和名 エノキ
 分類 ニレ科 エノキ属(落葉高木)

*以降、「木」は「樹」と同様の意味とし、大きな榎の木は樹とする。

この樹は、そこで育っている樹木の一つでしかない。
初めて出会った時、自転車に乗っているとその存在感に目が止まった。
自転車を降りて、近づきたくなった。

大きな存在
立派な樹形
伸び伸びと育つ様子

そんな姿に圧倒された。不思議な気持ちだった。

2020年4月、世の中にcovid-19が広がり
決まっていた仕事が消え、人と会うことが止められた。

あの頃、わたしは家にいると無性に彼(榎)に会いたくなった。
*性別的な意味はなく、生き物として彼と呼ばせてもらおう。

なぜだろうと考えた。

わたしは彼に、神のような信仰心は感じてはいない。
ただ、そこに堂々と立ち、天に向かって枝を伸ばし
若葉が気持ちよさそうに風に揺られている姿が心地よかった。

これから世の中はどうなってしまうのだろう。
自分の健康は、家族の健康は大丈夫だろうか。
先の見えない今日に、恐怖と不安を感じていた。

そこにいる彼は、わたしより遥かに長くこの世界に生きていて
生きることを一生懸命に繰り返しているように見えた。

その生き方に、絶対的な存在を感じた。

それは、信仰というより、生命のたくましさ
雨、風、雷、地震、虫、鳥、ウイルスという
さまざまな外的をなんとも感じていないような
凄まじい生きることへのエネルギー。

わたしは樹に対して、同じ生きることを繰り返す生きものとして、偉大なリスペクトを感じ
わからないことばかりの日々に、何か絶対的な安心感を覚えた。

「生きることを、ただ一生懸命に繰り返してみよう」

太陽の光を浴びて葉で光合成をし、大地から水を吸収し生きている樹。
食べて、排出して、寝て、動いて、生きている人間。

異なる生き物ではあるが、同じ地球上で、同じ太陽のリズムで同じ今を生きている。
彼を見ていると、あるがままの状態で生きることが怖くなくなった。

これを信仰心というのかわからないが、
日本人に伝わる信仰は、樹と距離が近くに暮らしていたから
樹が人に与えてくれる価値がわかっていたのかもしれない。

日本人は、暮らす地域に伝わる伝統文化を継承することで
樹をはじめとする自然と距離が近くにあったのかもしれない。

発展による暮らしの変化から森林浴は生まれたのか?

わたしは樹から得た心地からこう考えている。
わたしたちは伝統文化から離れた時、
同時に絶対的に感じていた何か(信仰か?)を見失い、
確信出来る何かを求めるようになる。
その時、確信できる材料となるのは意味や証拠だったりする。

自ずから然り、あるがままが自然であることに、
理由や証拠を求める様になる。

数字を確認し、ひと時の安心を覚える
目で覚え、頭で理解し、心を落ち着かせる。

本来ならば、身体が知っているその心地は
頭が正解を出してくれないと身体が落ち着かない。

何が正しいか。

正解を求め続けるあまり
既に正解である状態が見えなくなっているのかもしれない。


2000年代に入り、森林が人体に及ぼす効果が医学的なエビデンスとして証明され
人が森に入ることが、人間の健康に良いことがわかった。
森林浴は、医者いらずの治療法なのか?
いや、そうではないだろう。
森と、自然と、伝統文化と共に暮らしてきたわたしたちが
産業・工業の発展によって、都市に暮らすようになり
あたり前に感じていた心地を手放してしまっただけだろう。

森に入ると心地が良いのは、遺伝子レベルに記憶されてきたその心地を
身体が思い出しているのではないだろうか。
森との関わりを手放してしまった今、再び森と関わるためには
今の暮らしの中で行える「方法」が必要だ。
それがわたしが伝えたい、森林浴の本質だろう。

森は人を治してくれるような余裕はない。
なぜならただそこで一生懸命に生きているだけだからだ。

わたしたちは、森に入ればデータを取らなくても心地よさを感じることができる。
しかし、データがあることで、今のわたしたちは森に向かう一歩が踏み出しやすくなるのだろう。

感じる。

これ以上に絶対であることが、この世にあるのだろうか?
さぁ、森に確かめに行こうか。